つらつら草

ひらめです。 最近(2023/12/6-12)考えたことをつらつら書いていきます。

①作品の鑑賞について

私は作品の本質について「伝えたい」「残したい」だと思っています。

ただ、果たしてその伝えたい、残したいという思いは正しく叶うものなのでしょうか。

作品は鑑賞時にさまざまな価値観を介して解釈され、鑑賞者に届く頃には「作品」になります。つまり、この解釈された「作品」は受け手の価値観、鑑賞した環境なども含まれていると考えられます。

この時点で作者の伝えたいものと作品の関係に関わらず、作品と「作品」は一致していませんね。

(これは余談ですが、「作者」も一人歩きする時はするというのが面白いですよね。もちろんそれは「作品」の一部の「作者」として、ですが。芸能人とか配信者とかVtuberとかは作品が人物であるせいで作者と「作者」を混同しがちで困っています。)

解釈される前の作品についても、作者の伝えたいものはもちろん大きいものではありますが、それが全てではないと私は思っています。 作品は作者の伝えたいものを他人に伝えるため、伝えたいものを広げる技術や制作に関する技術、制作環境を介してできていると考えているからです。

つまり俗にいう「作品を鑑賞する」=「「伝えたい」に応える」ためには自分の価値観や鑑賞時の環境や制作時点での技術などのフィルターを削いでいかなくてはいけないのかもしれません。

②「作品」がわからない時

ところで、公開情報や調べた情報をもとにしてもどうしても「作品」がわからない時、あなたはどうしますか? 笑う?怒る?わからない自分に原因を追求する?他の人の解釈を聞いて納得する?

私が思いついた上記の行動に関してその行動に至る経緯について考えてみました。

〈笑うについて〉

逃避して無理矢理ポジティブになるための笑いなんですかね。 とりあえずの場凌ぎ兼できるだけ険悪な雰囲気にならないための対策かもしれません。

〈怒るについて〉

わからない自分から目を逸らし、人に責任を押し付けているとも言えるし、 作者が本当に伝え方が下手で、その人のためを思って何か伝えようとしている親切な人とも言えるし、 偽善とも言えそうで怖いですね。

あんまり人にエネルギーを割く方ではない自分が何もわかっていないだけでこの言葉選びが勝手に皮肉になっていそう、こういうのよくやる人間なので先に謝っておきます、ごめんなさい。(煽っていない、本当に。誓います。)

〈なぜわからないのか自分に原因を追求する〉

どんなに何かを得ても得ても足りないのが人生みたいなところがありますよね、 完成はないという意味でもしかすると人生は作品と似たところがあるのかもしれません。

〈他の人の解釈を聞いて納得する〉

手っ取り早いせいで手抜きと言われるかもしれませんが、自分にないものを人から得て成長するのは人間の本質だと思うのでいいんじゃないでしょうか。自分で解釈できたとしても、こういったことを通して解釈を深めたり、幅を広げられるのはとても素敵だと思っています。

〈not for meとして諦める〉

この言葉、謎解き界隈には今年からよく見るようになったんですかね。この“not for me”という評価が出てくるようになってからこの受け入れ方をする人が多い気がします。きっと受け取りたいと上のような行動をとり、可能な限り努力した後に諦めてしまっているのでしょう。

つまり、鑑賞者は無意識的には作品の伝えたいことを受け取りたいと思ってしまう、ということなのでしょうか。

鑑賞とは意外と本質的にコミュニケーションなわけですね、面白い。

③???

では最初の「鑑賞するためには自分の価値観や鑑賞時の環境や制作時点での技術などのフィルターを削いでいかなくてはいけないのかもしれない」という結論は本当に正しいのでしょうか。

そもそも伝えたい、残したいという思いが「正しく」叶うとはどういうことなのでしょうか。

作品は鑑賞者があって「作品」になりうる。

この鑑賞者を介する過程がコミュニケーションなのであれば、その作者の意図や作品と「作品」の差から生まれる「伝わるもの」の不均一さこそが作品が存在する意味であり、鑑賞という行動の意味であり、所謂、人間のコミュニケーションという営みなのではないでしょうか。

「正しく」の細かい定義はきっと人によって異なると思いますが、コミュニケーションが成立すること、これが「正しく」の1番大きな定義なのではないでしょうか。

それはそうと、この間びーあんあいどるという演劇を見まして。 アイドルオタクからアイドルをしている人へアイドルの解釈を伝えることがアイドルをしている人を救うところも見て鑑賞というコミュニケーションが成立するんだからこういうこともあるのかあと思いました。

もちろんコミュニケーションを行うということがコミュニケーションしている人同士の距離感が近いことを意味するわけではないことも自覚しなくてはいけないと思っています。あくまで生産者と消費者、その関係は変わりません。

④作品と作者は切り分けて考えるべきか

例えば、有名な人が書いたものは高いですよね。サインでもなんでも。 これはその人の価値が作品に反映されているのでしょう。

では作品と作者は切り分けないべきなのでしょうか?

私はある程度切り分けて考えるべきだと考えています。

なぜなら作品は作者の一部のみを含み、作者も作品の一部しか含まないからです。

作品は作者の一部を以て鑑賞されるために存在し、作者と鑑賞者のコミュニケーション手段となって一人歩きするのに対し、 作者は人間であり、作品という一時点の軌跡を残して変わっていくからです。

作品を作った時の作者は過去のもので作者は変わっていきます。それこそ作品を通じて変わっていくこともあるでしょう。

つまり、作品を鑑賞する上で作者という要素だけに引っ張られるべきではないし、作者を鑑賞するにしても作品という要素だけに引っ張られるべきではないと思うのです。

ここから派生して、謎解き界隈でスキャンダル的なことがもし起こったら、そのスキャンダルがあった作者の作品は酷評されるべきか否かを考えました。

作者の言動は作者の1要素であり、その作者は作品の1要素で、「作品」に還元されるのはほんのわずか。

そう考えると評価に作品外の作者の要素は含めるべきではないと私は思う、という結論にはなりました。

ただ鑑賞によって得たもののFBは現在の作者とのコミュニケーションになる以上、そもそも鑑賞したくないという気持ちはわかるなあ、の気持ちがしました。

本当にこねくり回して考えていることをつらつら書くだけになってしまった。キャッキャ。